くまの高虎研究会と行く名城探訪「津城」編 開催

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メインチラシ

移動が楽な観光バス、昼食付き!
安濃津ガイド会の案内で、津城と藤堂高虎の歴史を深掘りします。

実施日
令和8年1月31日(土曜日)8:50~16:25(予定)
市役所前駐車場に集合し、観光バスで現地に移動します
行先
津市丸之内27 津城
参加費用
3,000円(昼食代を含む)
参加資格
小学生から大人まで(熊野市内在住の方を優先)
ただし、小学4年生以下は保護者の同伴が必要
定員
30名(先着順) 催行人数15名
申込期限
令和8年1月28日(水)まで
申込方法
スマホ、PC等からによる申込フォームへの入力・送信、またはお電話にてお申込みください。
その他
催行人数に満たない場合は、申込期限に関わらず募集を中止させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。
当日は、屋外でのご案内となります。防寒対策の上、温かい服装でお越しください。
堀
春の津城

■津城の歴史■

織田信包(信長の弟)が天正8年(1580)に津城を創築。以後、津は城下町として発展してきました。本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れたもので、 低湿地ながら防御には堅固な城でした。

その後、藤堂高虎公が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、 慶長16年(1611)に大規模な改修を行い、北側の石塁を高く積み直し、その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました。 また、城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、 伊予町をつくりました。
さらに高虎公は、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行いました。 2代藩主高次公はそれをもとに城下を整備、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えてきました。

明治になっても町はほとんど旧城下町のままでしたが、明治の終わり頃になって外堀が埋められ、 新しい道や町が作られるようになってきました。現在では、本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなりましたが、 復興された角櫓の三層の白壁に老松がはえ、苔むす石垣とともに昔を偲ぶことができます。

津のランドマークともいえる津城。お城公園として美しく整備されており、お堀端や庭園を眺めながらの静かな散策を楽しめます。庭園は繊細な日本庭園と近代的な西洋庭園の2つ。春の桜、初夏のアジサイ、秋の紅葉など、四季折々の情緒ある風景が広がり、中でも春は、苔むす石垣と桜のコントラストが格別の美しさです。

織田信包が創築し、築城の名手・藤堂高虎に大改修されたこのお城。天守台や櫓(やぐら)もあり、本丸と西の丸の連なる石垣は見事。立派な高虎の騎馬像もご覧あれ。

寒松院

 ■寒松院 藤堂家墓地■

この寺は、江戸初期には昌泉院といったが、二代藩主藤堂高次公(たかつぐこう)が、藩祖高虎公の霊をまつるようになってから、高虎公の院号をとって寒松院 というようになった。それ以後、この寺は藩主の菩提寺として重きをなし、藩費で維持された。藩祖の百五十回忌には鐘と鐘楼、十代藩主高兌公(たかさわこ う)のときには、本堂・新書院・山門が再建されたりして、その勢いは他に並ぶものがなかった。ところが明治になって藤堂氏が離檀し、昭和20年の戦災で全焼してしまった。

南の入口から寺内に入ると、正面に本堂がある。しかし、これは戦後、他所から古い堂を持ってきたもので、昔の寒松院をしのぶことができない。
左手墓所には、初代高虎公、高虎夫人をはじめ歴代藩主の壮大な五輪塔が立ち並んでいる。西側にある六代高治公(たかはるこう)から十代高兌公の墓は板石塔 婆になっている。そのなかで七代高朗公(たかあき)の墓碑が欠けているのは、昭和20年6月26日の爆撃によるものであり、当時の傷痕がこんなところにも 残っている。北側には、津の支藩久居藩歴代藩主の墓塔が並んでいる。

お問い合わせ

教育委員会事務局社会教育課/社会教育係

〒519-4392 三重県熊野市井戸町796
電話番号:0597-89-4111
内線:418

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