神川地区地域まちづくり協議会

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熊野市神川町とは

三重県熊野市にある神川町は奈良県と和歌山県の県境に位置し、美しい川や田畑、山なみなど自然が魅力の町です。

神川町の歴史・文化・人物

木地師

トチ・ブナ・ケヤキなどの広葉樹を材料とし、ろくろという特殊な工具を使用し、木の器、杓子(しゃくし)などを作る職人のこと。良材を求めて深山に入り移住を繰り返すことから、「森の漂泊の民」と言われる。元禄年間(1688~1704)には柳谷・碇・長原・神上に移住した記録が残る。

那智黒石

那智黒石は、神川町神上とその周辺でしか採取することができない美しい黒色が特徴の粘板岩である。神川町より北山川経て熊野川を通じて海に流れ出た黒石が、那智大社付近の海岸に多く打ち上げられたことから、「那智黒石」と名付けられたと言われている。那智黒石の加工の歴史は古く、平安初期の遣唐使の貢物「玉碁子」は、那智黒石の碁石であったと言われている。碁石や硯の素材として評価の高い那智黒石ですが、その不純物のない美しい黒色の特徴から、アクセサリーや金の純度を調べる試金石などに広く活用されている。

那智黒石商品
那智黒石
那智黒石採掘

五鬼上堅磐(ごきじょう かきわ)(1897~ 1971)

五鬼上堅磐

日本の裁判官。最高裁判事、学校法人中央大学理事長。 
五鬼上堅磐は、上山神社の神主を務める家に生まれた。神上小学校高等科卒業後、堅磐は、家計を助けるために、代用教員、正教員として小阪小、井戸小、神内小などで教鞭を執った。20歳で上京し、中央大学夜学部に進学、そして、弁護士試験に合格した。大審院検事を経て、最高裁判所事務総長となり、裁判所内や最高裁機構改革問題などに取り組んだ。名古屋高裁長官、大阪高裁長官を経て、1961年(昭和36)、最高裁判事に就任した。退官後、母校の中央大学理事長となった。

1.竹原八郎屋敷跡

南北朝時代(1336~1392)に活躍した武将竹原八郎によって築かれた館と伝えられている。竹原八郎は、1331年(元弘元)鎌倉幕府討幕を目指す後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王(もりよししんのう)を熊野に迎え、いち早く兵を挙げ、目覚ましい働きをした武将である。反幕府勢力が結束し、後醍醐天皇方が巻き返し、鎌倉幕府滅亡につながったとされる。
竹原八郎屋敷の遺構は、東西44m、南北44m、幅8mの土塁と深さ6m・幅8mの空堀によって囲まれている。北側には土塁がなく断崖で、下には北山川が流れる。周囲は険しい山に囲まれた天然の要塞をなしている。屋敷跡は南北朝時代の貴重な史跡として広く知られている。
現在は屋敷内に花知神社が建立されて、竹原八郎、・護良親王、牛頭天王が祀られている。

2.田本研造 生家跡

日本写真界の先駆者・田本研造(1831~1912)の生家跡。
田本研造は、「北海道開拓使専属写真史」の委託を受け、開拓期の北海道の貴重な記録を数多く残した。彼の写真の特徴は、室内サロン調を脱し、時代の真っただ中に生きたドキュメンタリー写真師だったという点である。箱館戦争(1868~1869)の際に撮られた洋装姿の新選組・土方歳三の写真はあまりにも有名である。研造は、上野彦馬、下岡連杖とともに「我が国写真界の三羽烏」と称されている。

田本研造
写真「熊野市の文化財」転用
土方歳三

3.弓場城跡

三方を土塁に囲まれ、約30m四方形の南北朝時代(1336~1392)の館の形式を残した珍しい遺構である。要害山に近いことから出城という説もあり、天正・慶長の北山一揆には陣地として使用されたと考えられる。弓場城の名の通り、ここには弓を射る場所があった。

4.瀧神社

「柳谷」と「碇」の氏神である瀧神社は、古くはその名称の基になっている滝の上の小高いところに鎮座していたという。現在その入り口にあたる場所に1806年(文化三)の灯篭1基が立っている。この神社の創立年代は不明であるが、社殿に設けられている42枚の棟札から、江戸末期からの建立、再建、合祀の諸問題が分かる。瀧神社の前の灯篭一対は、「元禄十年(1697年)十二月」の年号で境内最古のものとなっている。
当神社は、古くは「瀧ノ神社」といい、神社前の渓流に落差15m程の滝があり、かつて祭礼の当屋はこの滝で禊をして、神事を務めた。
例祭は12月1日、そのほか地元住民は「田植えのあげに詣」という。
早春に白い花を咲かせるバイカオウレンが名物で、多くの参拝客や花見客が訪れる。

瀧神社1
瀧神社2

5.五輪塔 板碑の墓

五輪塔 板碑の墓

「長原村」は昔、池田道幡、由津有伯、栗村藤右ヱ門、御園道鎮などの落武者がきて拓いた土地だと伝えられる。由津家のほか子孫も残っているが年代などは分からない。しかし、この地は600年の昔大塔宮護良親王をお迎えしたほどの先史も残っているから、随分早くから拓けていたことがわかる。「長原」の改善センターへ行く道の途中に室町期か南北朝期の頃のものと思われる五輪塔と一緒に祀られている1mほどの板碑の墓があるが、これが「長原」の開拓の祖を祀ったものであるという。

6.城山(要害山城跡)

1589年(天正17)に築城されたといわれている。1586年(天正14)の天正の北山一揆には、堀内氏善や藤堂高虎によって攻められ、1614年(慶長19)の慶長の北山一揆のとき北山郷民が新宮の堀内大学らと紀州徳川方に対抗した古戦場と伝えられてる。

7.上山神社

旧神上中学校と神川温泉のある裏手の山の中腹に「上山神社」が鎮座している。現在、この宮は氏神飛鳥神社、山寺権現社、吉田大明神の三社から成り立ち、1877年(明治10)、一村一社令により上山神社と称され、神上、長原の氏神となった。
飛鳥神社の祭神は、新宮の阿須賀神社の十二権現で、飛鳥荒祭宮と呼ばれている。
山の寺権現は、新宮の神倉と同神で、木材を川で運ぶ筏師の守り神とされた。
吉田大明神は、安政年間(1855~1860)に起きた村替騒動の時、紀州藩の藩令(実際は新宮領主で紀州徳川家附家老の水野忠央の命令)に反して領民を救って自刃した江戸勘定組頭の吉田庄太夫を祀っている。
上山神社の霜月の大祭は、現在11月3日に行われる。

上山神社1
上山神社2

8.長楽寺

神川町長原にある長楽寺は、過去帳によると、その創始は1664年(寛文4)、開山が敦賀永覚寺四世・白外元浦大和尚である。「南牟婁郡誌」によれば、これはすでに長原大谷山の山中にあった慶蔵庵が長楽寺の現地に移されたものとされている。また、「新熊野風土記」には、「長楽寺二世万巌如実が白外元浦大和尚を勧進開山した」とあり、いずれの説も明らかではない。

長楽寺1
長楽寺2

9.もりさま(伊瀧神社)

1877年(明治10)までは、「長原」の氏神は伊瀧神社だったが、後の一村一社令によって、長原村民は「神の上」の上山神社の氏子となった。この関係で、今の伊瀧神社の社殿は急山寺権現を移築したものとなっている。ご神体は大岩だが、伝説によるとこのもり様の主は白蛇であると言う。現在では、毎年1月中旬の日曜日に、長原区民総出で祭礼が執り行われ、神主役は長原区長が務めている。

もりさま1
もりさま2

10.神川温泉

神川温泉は、県道七色峡線沿いの、神川・育生デイサービスセンターと旧神上中学校の間の敷地にある。三重県衛生研究所の温泉分析によると、「泉温は14.2度、清澄、硫化水素臭あり」、神上川下流右岸の200mの掘削深度より湧き出したものである。適温に加温した、100%源泉かけ流しの温泉だ。待合ロビーは明るく広々としていて、地域住民や地域内外の温泉客の憩いの場となっている。 ※臨時休業中

11.嶺泉寺

嶺泉寺は、1556年(弘治2)に開かれた。本尊は、釈迦如来の両脇に普賢・文殊の両菩薩を立てた釈迦三尊像で、江戸時代中期の作と言われている。当寺は、川向こう側に見える上山神社の別当寺であったが、1868年(明治元)の神仏分離令で一時廃寺となった。その後、再興されたが、その間建物は、学校として使われたという。当寺には、熊野市指定文化財の十寸髪・翁・小面の能面があり、十寸髪は桃山時代の作といわれている。上山神社の所蔵であったが神仏分離令によって当寺に移ったものである。面を付けた氏子に周囲から笹の葉の水を振りかける「雨乞いの神事」に使われたといわれている。いずれも洗練された能面であり、色彩が剥落しているものの芸能性は十分保たれ、近世初期彫刻作品としての評価は高い。

嶺泉寺1
嶺泉寺2
嶺泉寺3

12.庚伸塔

庚申信仰は、民衆の身近な信仰の対象として全国に広まった。多くは集落の外れに見られ、神川町内には16基存在する。

13.七色ダム

七色ダムは、池原ダムの下流約22kmの地点にあり、北山川中央を県境として左岸側は三重県熊野市神川町、右岸側は和歌山県東牟婁郡北山村に設置されている。1965年(昭和40)の運転を開始した七色ダムは、堤頂長200.8m、堤高60.0mの重力式アーチダムである。ダムで貯留した水は、和歌山県側の右岸側下流に位置する七色発電所(地下式発電所)にて、最大出力82,000㎾の発電を行っている。
ダム完成後の1974年(昭和49)11月ダム堤頂道路に関し、両県からの要請に基づいて国道169号として道路の管理・運用が行われている。

七色ダム1
七色ダム2
七色ダム3

14.旧神上中学校

1949年(昭和24)教室棟完成。1950年(昭和25)特別教室・管理等完成。1963年(昭和38)屋内運動場(講堂)完成。旧神上中学校は熊野市神川町の木造旧校舎で、伝統的な木造建築の趣を残す地域の文化資源。桜並木とともにイベント会場や見学スポットとして活用され、郷土の教育史や町外周知・地域振興に寄与している。

神上中学校1
神上中学校2
神上中学校3

15.徳本上人

徳本上人は、1758年(宝暦8)6月22日、現在の和歌山県日高郡日高町志賀に生まれた僧である。4歳の頃、母に教えられた念仏を唱え始めたといわれている。16歳の頃、専修念仏僧大良に結縁し修行に励んだ。1782年(天明2)、25歳の時、日高郡財部村往生寺の僧・大圓によって授戒。1785年(天明5)月照寺において一日麦粉一合を糧とし、昼は野外で水行をしたり、藤の蔓につかまってよじ登ったりするなど、過酷な修行をし、夜は堂内で30日間ひたすら念仏を唱え続けた。行場跡も多く残っている。
1794年(寛政6)頃から始めた全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など広範囲を巡り、修行を積んだ。殊に、漁民や山仕事の労働者などに帰依するものが多かったようだ。
上人の足跡を物語る石碑(名号碑)は、全国各地に千基以上(1500基とも)あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けている。

16.磨崖仏

かつては筏の難所として知られ、激流のために時には命を落とす筏師もいた。その筏師たちの鎮魂のために、実利(じつかが)という行者が高岩と呼ばれる岸壁に磨崖仏と南無阿弥陀仏の文字を刻んだ。

磨崖仏1
磨崖仏2
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