人物史(神話・伝説)

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※日本書紀は、古事記より8年後の720年に編纂された日本で二番目に古い歴史書です。

日本書紀には有馬と荒坂の市内の2つの地名が記されており、今も行われている2月2日と10月2日の「花の窟のまつり」と11月3日の「二木島祭」の起源が理解できます。神話や伝説が今も、史跡や文化、行事など人々の営みの中に生きています。

イザナミノミコト

一書はいう-イザナミ尊は、火の神を生むときに、やけどをして死んだ。それで紀伊の国熊野の有馬村に葬りました。この地の民俗は、この神の魂を祭るのに、花どきにはその花をもって祭り、また鼓、笛をならし、幡、旗をたてて、歌舞して祭ります。

【現代訳】(日本書紀 巻一、神代上一)

神武天皇(じんむてんのう)

とうとう狭野(新宮市佐野)を越えて、熊野の神邑に着き、天磐盾に登った。
そこで軍をひきい、だんだんに進んだ。海の中でにわかに突風にあい、皇舟は漂流した。このとき稲飯命が嘆いていった。「ああ、わが祖は天神で、母は海神なのに、どうして私を陸で苦しめ、また海で苦しめるのか」言い終ると、すぐ剣を抜き海に入って剣持神となった。三毛入野命もまた恨んで、「わが母と叔母(豊王姫)は二人とも海神である。どうして波を起して溺れさせるのか」といい、すぐに波の穂をふんで、常世の郷に行った。
四人兄弟の中で天皇ひとり、皇子手研耳命と、軍をひきいて進み、熊野の荒坂の港に到着した。そして丹敷戸畔という者を殺した。

【現代訳】(日本書紀 巻三日本磐余彦天皇≪神武≫)

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

平安時代桓武天皇の頃、将軍坂上田村麻呂はこの地に隠れ、海を荒らしまわって鬼と恐れられた海賊・多娥丸の征伐を命じられました。
近くの烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れ、鬼の隠れ家(現在の鬼ヶ城)を教えたが岩が厳しくそびえ、磯は波が激しくとても立ち寄れませんでした。その時、沖の魔見ケ島に童子が現れ、舞い唄い、軍勢も加わって大騒ぎをしました。鬼神が油断をして岩戸を開く一瞬に、将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめました。童子は光を放って北の峰に飛び去ったので後を追って行くと、紫雲たなびき、芳香に満ちた洞窟(清滝の上流)があり、守仏の千手観音を納め安置しました。

関連リンク

竹原八郎(たけはらはちろう)

元弘元年(1331)後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すため挙兵しました。天皇の皇子である護良親王も駆けつけたが失敗に終わり、天皇は隠岐島に流され、親王は熊野に逃れました。そのとき親王を自分の館に迎えたと伝えられるのが、竹原八郎です。
親王は令旨(手紙)を全国に発して倒幕に奔走しました。その結果鎌倉募府は滅亡し、建武の中興が始まりました。
竹原八郎もその殊勲者の一人で、伊勢方面に進出し幕府方の守護代や地頭を襲撃するなどのめざましい働きをしたと言われています。
光厳天皇の日記である「光厳院宸記」の元弘2年(1332)6月29日の記事に「地頭両三人討チ取ラレ、守護代宿所焼キオハラル。コレ熊野山ヨリ、大塔宮(護良親王のこと)ノ令旨ヲ帯ビ、竹原八郎入道、大将軍トナリ襲来。」とあり、八郎の活躍ぶりが記されています。
竹原八郎のその後の消息は明らかではありませんが、この働きで大正6年(1916)に正四位の位階を与えられています。
市内神川町花知にある屋敷跡は、東西40m、南北44m、幅8mの土塁と深さ6mの空堀があります。この地方唯一の南北朝時代の遺構で貴重なものです。

  • 増基法師(ぞうきほうし)
  • 有馬和泉守忠親
  • 鈴木孫一(雑賀水軍)
  • 近藤兵衛(天狗鍛冶)
  • 橘南渓
  • 吉田庄太夫
  • 田本研造

文化財

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